数学・物理 100の方程式

act. 15

親密さの裏返しだからだろうか、彼ら二人の苛めの的は浜崎一人に絞られていて、他の誰かを揶揄する場面は一度も見ていない。何かと関口に揚げ足を取られている山根ですら対象外だ。デリカシーがあるのかないのか、よく判らない。
「それだけじゃねえぞ。“前にも言ったはずなのにこんな時間に掛けてくるとは、独り寝が長い奴の僻みかそれとも嫌がらせか”とまで言われたとさ。そいで俺に掛けてきたんだよ」
笑いながら話す彼を見ていて、思わず呟いてしまった。
「浜崎先生と親しいんだ」
慌てて口を閉じたが、彼は特に気にした様子はなかった。
「授業うけたことないけどな。中等部に浜崎のかあちゃんがいて二・三年の時に教わった」
「教科は?」
「数学」
「もしかして、一番最初に答案の裏に何か書けって言った先生?」
「そ。終わって寝てたらいきなり椅子蹴りやがって、他の奴のやる気が削がれるから止めろ、そんなに暇なら裏に何か書けって。てめえの怒鳴り声の方がよっぽど邪魔だっつうの。………あー、ほんっとにうるせえババアだったな」
懐かしむように目を細めるのを見ていたら、一度会ってみたくなった。
「今でも―――あ、浜崎先生のお母さんなら若くて六十代後半か。もう退職された?」
高等部にも七十近い非常勤講師はいるが、もう教壇から去っていても不思議ではない。
「………まだ。けど、どうなるかな」
少々間をおいて返ってきた答えは、明るいものではなかった。
「三月の終わりに入院してそれからずっと休んでるし」
表情が少し固くなり、声のトーンも下がる。
「一応退院はしてる。でも、まだ本調子じゃないみたいだな。あのババアが元気なら浜崎もあんなカッコで学校こねえだろうし。着る物全部、かあちゃん任せだったからなあ」
「………浜崎先生も大変なんだ」
「本人は洗濯してありゃいいと思ってるから、大変ってほどでもないだろ」
知らず知らずのうちに寄せていた眉根を指先でつつかれる。
「あれが本来の姿だって」
軽い調子でそう言われ、つられてくすりと笑った。
「あのな」
「ん? 何?」
「俺、カンニングしてないから」
慌てふためいた挙句にベッドからずり落ちそうになったが、彼に抱きとめられて助かった。
「なんでお前が慌てるよ」
「だ、だって」
「だってじゃねえよ。やってねえつったらやってねえの」
「やったなんて思ってないってば! 君こそ、誰から何を聞いてそんな―――浜崎先生?」
無言で目がそらされる。
「違うの? じゃあ、別の先生から聞いた?」
「お前さ、ちょっと単純すぎ」
吹き出す彼が少しばかり恨めしい。昼間自分がどれだけ悩んだかなど彼が知る筈もないのだが、それでもやはり。
「僕は真面目に聞いてるんだけど」
「こっちも大真面目だ。俺のこと浜崎としゃべってて、試験監督の話になったのか」
「………なんで、判るの?」
「少しは考えて喋れよ。俺は『カンニングしてないから』としか言ってねえのに、誰から何を聞いた、浜崎か、でなけりゃ他のかって―――浜崎と俺のカンニングに関して話した、それは他の奴も知ってるってゲロったようなもんじゃねえか」
抱き寄せられ、背中を軽く叩かれて、むきになった自分が馬鹿みたいに思えてきた。
「………君の答案、初めは表だけしか見てなくて………やったのかと、思った」
彼の肩から湿ったタオルを落とし、素肌に額を押し付ける。
「証拠もないのに決めつけちゃいけない、でもどうすればって焦ってたら浜崎先生が来た。
見られたらまずいって隠そうとしたけど―――わ、笑うことないだろ」
肩を震わせる彼にしがみつくと、膝の上に抱き上げられた。
「それはまずいだろ。いや、庇ってくれるつもりだったんだろうけどさ」
「式と答えしか書いてなかったら普通疑われるよ。問題によっては減点にもなるし」
「そういうのはちゃんと書くって」
「そうだね。式また式で、単純な計算は抜かして飛び飛びに書いて―――まるで採点基準の下線部を抜き出したみたいに綺麗な答案だった。テストってものを本当によく御存知で」
「なんか刺のある言い方するなあ」
耳元で囁かれ、肩を竦める。
「だって、僕は浜崎先生が教えてくれるまで裏側見てなかったんだから。潔白を証明したくても計算用紙は集めてないし、どうしようって………」
「はいはい、俺が悪かった」
「悪いなんて思ってないのにそんなこと言わなくてもいいよ。一度は僕も疑ったんだし」
「へえ、今は疑ってないんだ?」
「うん。答案見た直後は『これはまずい、見られたらやばい』ってうろたえちゃって、他のこと何も考えられなかったけど、よくよく考えなくてもするわけないなあって。なんで一瞬でも疑ったのかな。授業中にあんな綺麗なグラフ描いたたのに」
「グラフ?」
「覚えてない? 前に出て黒板に、二次曲線と直線四本―――あれ見て、数学が得意なんだなって思った。あ、答案の裏の回転体も綺麗に描けてたね」
「美術部の連中だったらもっとマシなの描くんじゃねえ?」
笑いながら軽くあしらわれて、たまには言い返してみたくなった。
「だからって全員数学が得意とは限らない、って? そりゃそうだよ。元になるグラフが描けなかったら回転させようもないし………まあ、似たようなところがあるとは思うけど」
美術のデッサンでも数学のグラフでも、苦手な人間が描いたものは作成者の自信の無さが透けて見える―――そう言いかけて、途中で言葉を飲み込んだ。
突然の指名にも慌てず、手ぶらで前に出て素早く描きあげた彼には縁のない話ばかりだ。
悲しいかな、下手なりに頑張ろうにも時間をかければいいというものでもない。いっそ早めに投げ出した方が空白が多くなって目に優しいのでは、と言いたくなるようなのもある。
用紙の隅にかすれた線を無闇に重ねたり、あるいは歪んだ線をこれみよがしに大きく描いたり。まるでかけた時間に比例するかの如く薄汚れていき、最悪紙が破れ………笑い話にするのも気が咎める。
そもそも、対象を正しく捉えた者が描く迷いの無い線がどれだけ美しいかを説くために、不得意な者を引き合いに出す必要はない。仮にも教師のくせに。自分で自分が嫌になる。
黙り込んで彼の背中に両腕を回し、身を預けた。
「どうした?」
子供をあやすみたいに、ゆっくりと体を揺らしてくれるのが心地良い。
「疑ったりしてごめん。ばれないようにカンニングするより、その場で解く方が楽だよね。
そんなこと考えてる暇にさっさと採点してれば、もっと早く帰れたのに………ごめん」
「大して待ってねえよ。浜崎が意地でも終わらせるだろうから、遅くても七時かそこらと思って来たんだし」
「………準備室まで来たのも、手伝ってくれるつもりだったのかな」
「そりゃそうだろ。明日逃したら、えっらい先になるし」
「やっぱりその週のうちに返しちゃうんだね。次の週にまわしちゃいけないんだ」
「………あのな、うちのクラスの授業、通常は何曜日か覚えてるか?」
「火曜日と金曜日―――な、なに?」
いきなり両の頬を摘まれ、左右に引っ張られる。
「俺ら、来週の火曜日から修学旅行。明日逃したら再来週」
驚いて馬鹿みたいに口を開けてしまった。すると今度は両手で顔を挟んで覗き込まれた。
「年間予定表、もらっただろ。まさか学校に置いといたらなくなったとか言うなよ」
「ちゃんとあるよ。忘れてただけだってば。小学生じゃあるまいしなくしたりしないって」
「四月からこっち、他になくなった物は?」
「特にないよ? 自分のところでなくなるのが一番嫌な小心者だから、学校の資料なんかは使ったらすぐに戻して溜めないようにしてるし、私物はなるべく置かないようにしてる」
「いい心がけだな」
彼が笑って唇を額に落とした瞬間、ようやく何を尋ねられていたのか悟った。一拍どころか数拍遅れているが、言わないよりはと慌てて付け足す。
「僕が気づいてないだけかもしれないけど、嫌がらせもされていない。最初はともかく、今は永沢先生とはほとんど話さないよ。担当してる学年も違うから」
「―――永沢のことも、浜崎に聞いたのか」
「小テストの件だけ。永沢先生本人からは四月の初めに色々。君のことばかり聞かされた」
「小テストの話を、浜崎がお前に?」
怪訝そうな顔をされて、焦って記憶の糸を手繰った。
「あ、違う。山根先生からだ。浜崎先生から聞いたのは年度半ばで担当が替わった話だけ」
「ちっ、山根か」
「………山根先生が教えてくれなかったら僕は何も知らないままだったよ。浜崎先生は、ぼかした言い方しかしなかったし」
「だろうな。俺にばっか肩入れする気はない、中立でいくって去年もはっきり言ってたし」
「なんで? どう考えたって悪いのは永沢先生の方じゃない」
「見てきたようなこと言うなよ。去年居合わせたわけでもないのに」
いかに口調が優しかろうが、これでは“お前は関係ない”と突き放されたも同然だ。
「いちいちお前が気にすることでも―――あー、もう。泣くことねえだろ」
苦笑まじりに頭を撫でられ、優しく目元を拭われても涙は止まらない。
「だ、だって………っ………」
「ったく、山根の奴もしょうがねえなあ。修学旅行前にバラしたろか。絶対恨まれるぞ」
修学旅行と聞いて、関口が山根をからかっていたのを思い出した。
「………自由行動?」
鼻をすすりながら尋ねると、彼の表情が緩んだ。
「もう聞いてんのか」
「何をやったのかは知らないけど、凄かったって関口先生が言ってた」
「俺は別口からの又聞きだが、凄いって言うよりアホだ」
「他校生とケンカした、とか?」
「いや、それならまだマシ。山根の学年までは、班ごとに終日自由行動できる日があったんだ。それで朝一でホテルにタクシー呼びつけたでは良かったんだがな。山根がでかい声で“雄琴までどれくらい?”って叫んで、関口に捕まっちまったんだと。捕まってもしらばっくれてりゃいいのに、べらべらしゃべって全部パー」
「おごと?」
おそらく地名だろうが一体どこなのかと首を傾げていたら、彼が耳打ちで教えてくれた。
「こ、高校生が行くところじゃないだろ!?」
「結構みんな行ってたらしいぜ? 私服に着替えたら判んねえし。山根のせいで、次の年から自由行動は二時間以下になったんだよ。日程が三泊四日に縮んだのもあいつのせい」
「………行けなくて残念だったね」
「別に? わざわざ修学旅行で行かなくても、こっちにだっていくらでもあるし」
あっけらかんとした答えを聞いて、がっくりと肩が落ちる。『興味がない』は高望みだとしても、せめて『不自由してない』と言って欲しかった。
「しっかし、いまどき私立で京都三泊四日ってありか?」
それを受けて、隣県にある巨大遊園地の方が良かったのかと尋ねたら、渋い顔をされた。
「それこそ暴動もんだろ。何が悲しくて修学旅行であんな近場に行かなきゃならねえんだ」
ようやく年相応の顔を見られたような気がして、つい声に出して笑ってしまった。
彼が苦笑いして目じりに唇を寄せるのに、先ほどまで泣いていたのを思い出す。
しつこいと思ったが、このまま誤魔化されてしまうのも嫌で、あえて食い下がった。
本当は、彼があやしてくれるままに流されてしまえばいいのだろうけれども。
「山根先生の話はしてくれても、どうして永沢先生が君に拘るのかは教えてくれないんだ」
「永沢には聞くなよ」
特に気を悪くした風もない代わりに、何も聞き出せずにあっさり打ち切られて終わった。
「聞けないよ、変に刺激したくないし………でも一つだけ、聞きたいことがある」
「ん?」
「小テスト。習ってない範囲で白紙だったって聞いたけど、本当は解けたんじゃない?」
珍しく、彼が視線をさまよわせた。
「………少しは、書けたかもしれない」
「じゃあ、どうして白紙に? 書いても採点で手を加えられたら無駄だと思った?」
「それもあるけど………さっきお前も言っただろ。刺激したくなかった。院試でも、まだ証明されてない定理でも出題できたのにあの程度の問題出してきたってことは、それほど頭煮えてるわけでもなさそうだから、下手に答えずにさっさと流した方がいいかと思って」
「流してって、それで零点になったら、それでなくても授業中のこととか―――」
憤りに駆られて捲し立てたら、鼻を摘まれて勢いを殺がれた。
「あのな。言いたかねえけど、俺は中等部の時もそこそこ成績良かったんだ。高等部に上がった途端に数学だけ1になったら担当教師も疑われる程度にはな。だからほっといたんだよ。長引いて半年以上も続くようなら、自主退学して大検受けるつもりだったし」
では、もし永沢が要領よく生徒苛めをやりおおせていたら彼と出会うこともなかったのか。
「………永沢先生が抜けててよかった」
「永沢も、お前に言われたくないだろうな」
散々醜態を晒した身では言い返すこともできずに唇を尖らせて俯くと、ゆっくりと膝の上から降ろされた。
「そろそろ帰る」


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