数学・物理 100の方程式

act. 6

ベッドの揺れに目を覚ますと、彼の背中が視界に入った。ジーンズを履いた腰をベッドに下ろし、上半身は裸のままだった。張りのある肌に水滴が玉を結んでおり、普段自分が使っているボディソープの香りが漂ってくる。
そんな些細なことが嬉しいなんて、小娘を通り越してカマトトの領域だ。
いまどきの子は「カマトト」なんて言葉は知らないかも―――かく言う自分も世間的には青二才の範疇だが彼はさらに若い。
カーテン越しの朝の光に浮かび上がる肢体が眩しく感じられるのは、自分が汚れたシーツに身を横たえているせいばかりでもないだろう。
そのままじっと背中を見つめていると、いきなり彼が振り向いた。
「勝手に借りた」
凝視に気づかれたかとびくつきながら頷き、髪を拭く手を止めた彼から目をそらした。
「予定あんのか、今日」
湿り気の残る指先で額をつつかれ、無言でかぶりをふった。
「俺も今日暇だし―――先に電話で聞くか、それとも直に届けに行くか。どっちにする?」
「………行ってみる」
「駅で降りたときはまだあったっつってたな。どの道を通ってきたか、覚えてるか?」
「うん」
「んじゃ、着替えたら行くか」
「うん」
まるで子供のような返事をしてベッドを降り、全裸のまま足取りも重く浴室に向かった。
浴室の扉を閉めた途端、緊張の糸が切れてずるずるとへたりこんでしまった。
あんなことがあった次の朝に平気な顔をするのは至難の技だったが、彼の態度に合わせて必死で取り繕ったのだ。
―――昨夜のことも彼にとってはよくあることなのだろう。今までも、そしてこれからも。
目頭が熱くなりかけたが、唇を噛んで必死に耐えた。昨夜彼の目の前で散々泣いた後なのに、まだ残っていたのかと情けなくなってくる。
理由が違えば新たな涙も涌き出るだろうが、それにしたってこんな感情は認めたくない。
誰に見られる心配がなかろうと絶対泣きたくなかった。
適温に調整されていたシャワーのカランを捻り、暖かな雨に打たれながら膝を抱えて昨夜の記憶を辿った。
肌を辿る手や繰り返し与えられた唇、奥をえぐる指に煽られて夢中になった自分が、そして拙い愛撫に応じてくれた彼が幾度達したか定かではない。最後には気を失ってしまい、目が覚めたら朝になっていた。
酒のせいもあって所々抜け落ちているけれど、だからといって何もかも忘れた振りができるほど器用でもない。いっそ忘れてしまいたいことほど、しっかりと記憶に残ってもいる。
思い返すと叫び出したくなるような自らの狂態も、彼が最後まで挿入しなかったことも。
どこからか取り出した小さな袋を歯で破るのをみて、やはり男同士でも使うのだと思った。
一応使うには使ったが、期待は見事に外れた。
………彼だったらいいと決心し、奥に塗りつけられる間も息をつめてその時を待っていた自分が恥ずかしくて堪らない。
ご丁寧に避妊具を被せた何度も指で貫いておきながら、彼は決して下肢を繋ごうとはしなかった。
彼にその気がないと悟った時の惨めな気持ちも、きっと一生忘れられないだろう。
理由を尋ねるのも怖くて出来ない。学生時代、女出入りの激しかった奴が愚痴っていたのを憶えているからだ。
「処女は面倒臭い」と漏らした彼を周囲は自慢か嫌味かと吊し上げにかかったが、本人の実体験を暴露しながらの弁明により、最終的には渋々ながらも同意した。
あのとき何が嫌だと言われていたのか、必死になって思い出そうとした。遊びなれているだろう彼に「面倒なのに手を出してしまった」と後悔されたくなかった。
昨夜限りのことだとは、自分が一番よく判っている。
泣きすぎて腫れた顔をタオルで冷やしながら寝室に戻ると、彼の姿がなかった。黙って帰ったりはしないだろうと自らを宥め、手早く身なりを整えて玄関に向かった。
既に靴もはいていた彼に待たせた詫びを言うと、軽く手を振った。
『そんな待ってねえよ。んじゃ行くか』
先に出て行く足取りに、部屋を後にしたくないと願っているのはこちらだけなのだと思い知らされる。
鍵を持って後に続くと、怪訝そうな顔で手元覗き込まれた。
『それって別注? 両隣は暗証だけみてえだけど』
『うん。前は姉が一人で暮らしてたから用心して二つ目をつけたんだ。出て行く時はいいけど、入る時はこれが無いと駄目』
合鍵をねだってくれないだろうかと心中で祈ったが、そんな都合のいい話はなかった。
『締め出し食ったらどうするよ』
『一応管理人さんにも預かって貰ってあるけど、最悪姉に泣きつく』
『姉ちゃんのが最悪なのか。管理人じゃなくて』
『怖いんだよ―――笑うことないだろ』
こうして話していられるのも用が済むまでだと思うと切ない。いっそエレベーターが故障して止まればいいのに、などとくだらないことまで考えてしまう。
『引き出物ってことは表に新郎新婦の苗字が書いてあんだな?』
『ええと、熨斗紙に僕宛の寄せ書きがしてあるから、僕の名前が一番目立ってる』
『寄せ書き?』
『うん。学生時代の友人の式だったんだけど就職決まってから初めて会う連中が多くて』
寄せ書きをしようと新婦が言い出し、新郎が色紙を買いに行きかけた。慌てて「主役が抜けてどうする」と引き止めている間に、新婦が熨斗紙に書き始めてしまったのだ。
『大雑把な所があると前から思っていたけど―――あ』
苦笑する彼と共に表に出て真っ先に眼についたのは、マンションの正面に止められていた赤い車だった。
『りーくちゃん』
運転席の窓から手を挙げたのは昨夜の男だった。
『………後つけたのか』
彼は渋い顔で唸ると、立ち竦む自分を置いて男の元に行ってしまった。
『つけてないわよ、失礼ねえ。忘れ物持ってきたのにそんな言い方しなくっても』
男は唇を尖らせて助手席から紙袋を差し出した。
『はい、これ。昨日あそこに落ちてたの。丸尾先生ってあんたのことでしょ?』
名指しされては知らぬ顔も通せない。黙って頷き、車の方に向かった。
『勝手に中見たのかよ』
『封を開けたわけじゃないわよ、見ずに届けた方がよかったの?』
『住所、どうやって調べた』
『花輪君に聞いたもん。あ、そうそう、すぐに電話して。昨夜携帯切ってたでしょ。りくちゃんのこと探してたわよ。あたしと一緒にいるはずだ、出せって散々怒られちゃった』
『ちっ、あいつもうるせえな』
少し離れて携帯を取り出した彼を横目に、礼を述べて男から紙袋を受け取ろうとした。
親切な届主は笑顔で袋を寄越すと、軽く身を乗り出して耳元に囁きかけてきた。
『いい気になってんじゃないわよ、このブス』
硬直した自分を無視し、男は涼しい顔で座りなおして電話中の彼に向かって声をかけた。
『帰るんでしょ? 送るわよ』
『ああ、ちょい待て』
顔を上げて返事をした後、彼は電話を少し離して怒鳴った。
『てめえは俺の親父か! いちいちうるせんだよ!』
すぐに電話を切ってやってくると、紙袋を指差して尋ねた。
『それ?』
『う、うん』
『無くなってる物はないか?』
『箱だけだし、封もそのままだから』
『そか。見つかってよかったな―――じゃ』
助手席に乗り込んだ彼に、男がこれみよがしに抱きついた。
『りくちゃん、ごほうびー』
『ああもう、うるせえな』
彼はうんざりしたように言いながらも男を拒んだりはせず、ちゃんと口付けてやってから肩を掴んで押し戻した。
『早く出せよ』
『はあい―――先生、バイバイ』
しっかり眼を見て挨拶する男に気圧されてしまい、口の中で返事をして俯いた。
勢いよく走り出した車を見送って、部屋に戻るべく踵を返した。
―――何のことは無い。立場が逆転しただけの話だ。
昨日は自分が彼と共にあの男を置いてきぼりにした。今日は自分が置いていかれる番。
どちらが選ばれるかは彼次第で、こちらの都合も感情も関係ない。
昨夜、恥をかかされたも同然なのに黙って引き下がったあの男は、彼のことをよく知っているからそうしたのだろう。
けれども先ほど自分が引き止めなかったのは男に倣ってのことではない。
引き止める理由が無かった。
落し物が出てきてしまえば、一緒にいる口実も無くなる。
出て来なければ良かったと思うほど短絡思考の持ち主でもないが、よりによってあの男に拾われなくても………おそらく彼を認めて驚いた拍子に手を離したのだろうし、わざわざ届けてくれた男を悪意に満ちた人物と断定するのは狭量すぎる。そもそも落す方が悪い。
彼を捕まえ、泥棒猫の品定めをするという目的があったにせよ、放置したり見つかりにくい所に捨てたりせずに住所まで調べてくれたのだから。
教職員の住所を記載した名簿が生徒に配られていないのに、どうして花輪が自分の住所を知っていたのかという点に一瞬引っかかったが、あの裏表のある美少年の親友が品行方正なばかりの優等生とも思えない。新参者には窺い知れない伝手でもあるのだろう。

部屋で袋の中身を取り出してみると、落とした衝撃でか角が少し潰れていた。
派手に落書きされた熨斗紙を用心深く剥がして包装紙を取り去り、恐る恐る箱を開けた。
二次会で開けた者がいたから、ペアのワイングラスが入っているのは知っている。
割れていたらどうしようかと怯えつつ一つずつ箱から出して慎重に検分したけれど、眼に見える傷はついていなかった。
そっと触れ合わせて澄んだ音に無事を確認し、深く溜息をついた。
もし二人がここにやって来た時、割れたと告げて故意にやったと思われたらどうしようかと心配していたのだ。
そんなひねくれた物の見方をする人間ではないと判っていても、後ろめたさを抱えているが故に嫌な方に考えてしまう。
ワイングラスを箱に入れてサイドボードの下段に片付け、包装紙を捨てて熨斗紙を眺めた。
これは捨てるわけにはいかない。
赤や青も交え、主にボールペンで細かく書き込まれた自分へのはなむけの言葉の数々は、当たり前だが新郎新婦の名をしっかり避けてあった。
一人になって箱の表を見たら泣いてしまいそうだと思っていたのに、意外にも涙の一粒も出てこなかった。かといって、何も感じないわけではない。
幸せそうな二人の笑顔を思い浮かべれば、それなりに胸は痛む。
けれども今はもっとひどく痛ませる光景が眼に焼きついている。
五年越しの片恋は、一夜で思い出に変わってしまった。
一度抱かれただけでこれか、と自分でも情けなくなる。
―――ずっと友人に抱いていた気持ちは、こんなにあっさり吹き飛んでしまうような薄っぺらなものだったのか。
彼に身を任せたことを、こんな形で後悔することになるとは思いもよらなかった。
一応相手は顔見知りとはいえ、まるで行きずり同然に身を任せた自分が厭わしい。
彼でなくても、あの時強引に求められたら応じていたに違いない。
一人になりたくなかった。温もりが恋しかった。
誰でもいいから、一緒にいてほしかった。
………多分、彼も見るに見かねて手を差し伸べたのだろう。
自分の通う学校の教師などという厄介な相手に手を出すほど不自由はしていないのだから。
―――あんな状態でなければ。
―――あの場所を通らなければ。
―――自分を拾ったのが彼でなければ。
どれも今更考えても仕方の無い仮定ばかりだ。
今日明日が休日なのがせめてもの慰めか。頭を冷やす時間はある。
その後もほんの三日の辛抱で四連休に入るし、休みが明けたらすぐに中間テストの発表だ。
新米にもかかわらず、着任して間もない頃に問題の作成という大役を仰せつかって焦った
が、今となってはこの先忙しくなるのがありがたかった。
準備は入念にした。実際に作成に取り掛かればあっという間だろうが、十分に時間をかけるつもりだ。余計なことを考える暇など無くしてしまえばいい。
どうせ学校で顔を合わせてもうろたえるのはこちらだけで、彼は涼しい顔をしているに決まっている。
彼にとっては幾つも重ねた情事の一つでしかないのに、自分ばかりが忘れられずに悶々とするなんて真っ平だ。


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