数学・物理 100の方程式

act. 10

次の日の授業は初出勤よりも緊張したが、教室に入って平然としている彼を見たら馬鹿らしくなった。
彼の冷静さと自分のうろたえぶりに二人の温度差を再確認させられた。すさんだ気分を表に出さぬように注意しながら数十分をやり過ごし、すごすごと職員室に戻った。
その晩、何食わぬ顔で彼がやって来たのは夕食を終えたばかりの時刻だった。
玄関先で追い帰せなかった自分の弱さが恨めしい。指先が肩に触れた途端に体に火がつき、脆い決意はあっさり崩れた。
そんな体に変えた男に黙って身を預けながら、心の中で泣き喚いた。
―――よく顔が出せたものだ。一昨日の晩どんなに心配したか知りもしないで。
何も言ってないから知らなくて当たり前だと思う一方で、待っているのが判っていながらあえて無視したに違いないと僻んでしまう。だからといって、今から問い質す勇気はない。
夜通し心配したのは自分の勝手。頼んだ覚えもないのに「徹夜で待った」と文句を言われても困るだろう。約束もない以上、連絡をする義理はない。
そもそも待っている(かもしれない)人間に迷惑をかけたくなかったり心配させたくないと思うから連絡するのであって、どうなろうと知ったことではない相手なら、無連絡でも大して気も咎めないだろう。………要するに、彼にとって自分はその程度の男なのだ。
やるだけやって、彼は電車のある時間に帰った。
連休中のように泊まらなかったのは、次の日も学校があるからだろうか。もしかしたら、連休最後の晩に来なかったのも同じ理由かもしれない。
―――テレビを見るまで連休が終わったのに気付かなかった自分とは大違いだ。
いかにのぼせているか、対して彼が冷めているかが良く判る。
自嘲に歪んだ唇から嗚咽が洩れるのに、大して時間はかからなかった。
“好きになった人に、同じように好きになってもらえる”。
そんな甘い夢を見ていたわけじゃない。けれども、ここまで何とも思われていないと辛い。
辛くて、胸が痛くて、泣いても泣いても涙が止まらない。
独りよがりな上昇と下降の連続に疲弊しきっていた心は、この夜ついに粉々に砕け散ってしまった。
破片が飛び散った後に残っていたのは、それでも彼が好きだという気持ち。

採点を終えて職員室に引き上げたのは五時近くになってから。採点結果を名簿に写していたら、思いのほか時間がかかってしまった。
自分の手持ちに担任用、教科主任用の合計三冊。どうせこれから端末に入力するのだし、その後プリントアウトして渡してもよさそうなものだが、最初にボールペンで記入するように言われた。二度手間ならぬ三度手間に首を傾げそうになるけれども、慣例とあれば新米は黙って従うのみだ。
入力の仕方は山根が教えてくれることになっている。名ばかりとはいえバスケ部の顧問を務める彼は、直接指導はせぬものの練習終了時に顔を出さねばならないそうで『どうせ七時過ぎまでいますから。職員室でお茶でも飲んでます』と快く引き受けてくれた。だから彼を待たせているのは承知していたが、入るなり数人の教師に詰め寄られたのには驚いた。
「丸尾先生、遅い」
物理の関口に言われてうろたえているうちに、山根に答案の束を取り上げられた。
「さーて、茂門賀君のはどれかなっと」
手近の机に答案を置き、素早く答案をめくっていく。
「あった、あった。ありました。やっぱ満点か。いつもえらいねえ」
山根は気の抜けた口調で点数自体に関心はないと表明し、すぐに答案をひっくり返した。
「うわー、随分と派手にやったね―――あ、丸尾先生。これ、確率の答案」
山根に彼の担当科目の答案を手渡されたのに続き、関口からは物理の、そして小杉からは化学の答案が回ってくる。いずれも裏面にみっしりと書かれており、自分の担当教科が特に熱心なわけでもなかったのかと少し寂しくなった。つい先ほど浜崎の前で馬鹿にされたと泣いたくせに他と同じは嫌だなんて、我ながら虫が良すぎるとは思うのだが。
「丸尾先生、えっと、僕らが強制的にやらせてるようなもんなんで」
ふとついた溜息を誤解されたか、山根がフォローめいた言葉を口にした。
「これ見よがしな生意気小僧ってわけじゃないですから」
おそらく浜崎から何がしか聞いたのだろう。泣いたのはさすがに黙っていてくれると信じたい。面白おかしく噂話をする人間ではないから大丈夫だとは思うけれども。
「そんなんだったら、いっそこてんぱんにするけどね」
聞いていたら真っ先に突っ込んでくるはずの関口は、笑いながら答案を眺めて自分の方は見ようともしない。どうやら黙っていてもらえたらしい、とひとまず胸をなでおろした。
「もしかしたら学校の授業が物足りないんじゃないかってこっちが心配になるくらい出来のいい生徒ってたまにいるけどさ、そういうのほど殊勝な態度なんだよな。つまらん」
「関口先生、何かあったら茂門賀君を叩く気満々ですね」
小杉が関口を肘で突ついた。
「当然だろ」
楽しそうに語る関口や小杉を見ていると羨ましくなる。可愛くて素直で、教師の胸がすくような学業優秀な生徒―――そんな風に彼を見ることができたら良いのに。そんなことを考えながらぼんやりしている間に回覧は終わり、答案が手元に戻ってきた。
「丸尾先生、すいません」
「いいえ―――あ、山根先生。入力方法を教えていただけませんか」
「はいはい。今日やり方覚えれば明日好きな時間にやれますもんね」
「え? 今からじゃ駄目なんですか?」
できるだけ早く済ませようと思っていたところを挫かれて、ついぞんざいな聞き方をしてしまった。平生、“質問する際は口ごたえと取られないように”と心がけていたのに。
慌てて言い直そうとしたが、その前に関口に笑い飛ばされた。
「丸尾先生、気が早いよ。答案返す時に訂正あるかもしれないでしょ? いや、そんなのちょいちょいって直せばいいじゃんって思うだろうけどさ、これが色々面倒なの。名簿も修正液はアウト。二重線で訂正印ね。丸尾先生の手持ちのやつでもハンコいるから」
「そうなんですか。ありがとうございます」
「面倒くさいだろ?」
「いえ、そんな。軽々しく訂正できるようなものじゃないってことでしょう?」
「ん? 俺は軽々しくハンコ押しまくってるけど? そんな堅苦しく考えなくていいよ。たださあ、数学はちょっと特別なんだよね。色々やってくれる人がいるから」
急に声を落とした関口が顎で示した先には、この場に加わらず机に向かう永沢がいた。
驚いて振り返ると、談笑しながら答案を眺めていた教師達は全員渋い顔になっている。
「ちょ、ちょっと、関口先生、まずいですよ」
気まずくなった空気を入れ替えようとするかのように、山根が両手を振り回した。
「知らない方がまずいと思うけどな。ちゃんと詳しい事情を説明しといた方がいいよ?丸尾先生も気をつけてやってくださいね」
そう言って関口が去ったのに続き、他の教師も散り始め、後には山根一人が残った。
「それじゃ、始めますか」
関口が言うところの“詳しい事情”とやらが気になったけれども、先程までとは違うどこか疲れたような笑顔を見てしまうと、自分から聞くのも憚られる。
黙って頷き、山根の後に続いた。
入力の説明自体は二十分もかからず、終わってから山根に屋上に誘われた。
夕闇の迫る屋上には誰もいなかった。中央にしゃがみこんだ山根に手招きされ、腰を落として向かい合う。
「ここなら誰にも聞かれないでしょう―――みっともいい話じゃないですからね」
山根は穏やかな口調で話し出した。
「去年の一学期、永沢先生は一年生を担当してました。僕は三年生の文系V」
四月に受けた説明を思い出しながら頷いた。たしか文系Tが内部進学希望者、Uが国公立を含めた外部受験希望者で、Vは一応外部進学組とされているものの、Uと違って内部進学を諦めざるを得ない生徒の集まりと聞いている。
「途中で交代したのは中間直前の小テストで一揉めあったからなんです。永沢先生、他の生徒には普通の問題用紙配っておいて、茂門賀君だけ習ってないところから出した特別製を渡したそうで。僕も後で見せて貰ったんですが、高校じゃやらない複素関数やら線形代数やら………理系の教養程度って感じの問題でしたね」
あまりに大人気ない永沢のやり口に、呆れてすぐには言葉が出てこなかった。
「幸い、すぐに花輪君が気がついてテストを中断させました。永沢先生に叱られても構わずにクラスのみんなに茂門賀くんの問題用紙を見せて、全員の用紙を回収して職員室に駆け込んだんです。いつもすぐに書き出すのに、その日に限って固まってるのを見て変だと思ったって………僕、その時ちょうど空き時間で居合わせたんですが、すごい剣幕でした」
浜崎は言い逃れをする永沢を退け、花輪から詳しい話を聞いて校長にも報告した。
最初の授業から彼を目の敵にしていた永沢は、何かにつけて『お前はこんなの馬鹿らしくてやってられんだろう』と当てこすり、課題も出さなくていいと受け取らなかったという。
「案の定、課題の提出点はついてなくて未提出扱いでした。それで浜崎先生が放課後に茂門賀君だけ呼び出して話を聞こうとしたんですが、何も言わなかったそうです。他の生徒からも聞いたって言っても永沢先生に何をされてたかは全然………そういう子だから、もしもあの日花輪君が職員室に来なかったら、中間テストも零点になってたかもしれません」
「で、でもそうなったらさすがに―――さっき浜崎先生から聞いたんですけど、中等部の頃から出来る子だったんでしょう? 高等部にあがった途端に零点とったりしたら」
「疑われるに決まってますよね。しかしそれは永沢先生だって判ってたはずです。そこまでする相手の過去の成績くらい目を通してるでしょう。でなきゃ、馬鹿らしいだの何だのって台詞も出てこないと思うし」
「………なんで、そんなにまでして………」
「なんででしょうねえ―――ま、そんなことがあってテスト直前に僕と代わったんです。なあんの処分もなしにね。それでも永沢先生、相当嫌がってました。救いようのない馬鹿クラスって言って校長先生に叱られたりして………あれはさすがに腹立ちましたよ。確かに、数学が苦手で投げてる子が多いから手間がかかる割には実りが少ないけど、馬鹿だなんて思ってても言ってほしくなかった。たとえ生徒の耳に入らないと判ってる場所でも」
その直後の中間テストは、永沢の作成した問題を流用して採点は山根がやることになったのだが、あからさまな手抜き問題で平均点が異常に高くなってしまったそうだ。
「丸尾先生、今回問題作る前に浜崎先生に色々言われたでしょう?」
「はい」
浜崎からは、大問を少なく、前の問題で出させた数値を次の問題で使うなりして、できるだけ小問を繋げる形で作るように指示された。一つ間違えると芋づる式に間違えることになるのではと尋ねたら、地道なカンニング対策とでも思っておけと言われたのだ。
「………実を言うと、平均点が前年度よりもかなり低くて焦ってるんですが」
「気にしなくていいですよ。追試は問題続けないようにして点を取りやすくしてますから。なまじ内部進学枠が確保されてるから、点数でびびらせないとどうしても怠けちゃうんで」
相対評価で見る分には平均点は大して影響しないし、むしろ平均点が高すぎると、できる・できないがはっきりしなくて困ると山根は答えた。
「だから僕も中間テストの後は何度もモニターをにらんで唸ってたんですが、そこを永沢先生に張り付かれちゃって」
問題の御粗末さを詫びつつ後ろから覗き込み、パスワードを入力する手元をじっと見ていたと聞き、背筋が寒くなった。山根は一旦切り上げる振りをして、永沢が授業に赴くのを見届けてから慌てて変更して凌いだと言うが、もしもそこで気づかなかったら―――。
「一応その日はなんともなかったんですが、次の週にやってくれました」
「あ、あの、まさか」
「ええ。僕の変更前のパスワード使おうとしたんです。さっき二回間違えるとアラートって言ったでしょ? 音がでかくて恥かく上に教科主任や学年主任でないと戻せないんです。そこで浜崎先生じゃなくて小杉先生に頼むところがまたねえ………」
他の教科の主任に頼んで隠すつもりだったのだろうが、小テストの件で永沢がしばらく採点から外されることになったのは教職員全員が知っており、当然小杉も突っ込んだ。
「僕のユーザー名がでかでかと表示されてるのに何で二回も、過去の成績が見たけりゃ名簿で見ればいいだろって。『名簿が見つかりませんでした』『間違えただけです』と言い張って最終的にはお咎めなし。小杉先生、相当怒ってました。『なめられた』って」
温厚な小杉が怒った姿は想像しにくいが、永沢のやったことを思えば無理もない。
「………改竄、するつもりだったんでしょうか」
「でしょうね。何かやるだろうと思ってましたが、まさかあんなしょぼい手でくるとは」
危うく濡れ衣を着せられるところだったにも関わらず、山根はごく平静に話し続けた。
「しょ、しょぼいって、山根先生」
「だって前の週に盗んだパスワードですよ? しかも露骨な覗きで。ばれてないと本気で思ってるわけはなし、でもフェイクにしてはお粗末過ぎるし、一体どういうつもりだって散々悩みました。もしかしたらあの手抜き問題も何か裏があったんじゃないかって」
山根は返却前に答案を全部スキャナで取り込み、データを浜崎と教務主任にそれぞれ渡して職員室の金庫にも預けていたのだが、完璧はありえないから気を揉み続けたとこぼした。
「答案、全部ですか」
「的が茂門賀君一人とは限らないと思ったんで。結局は僕も永沢先生になめられてたみたいですがね。ま、あんな対策しか取れなかったし馬鹿にされても当然ですが、大事にならずにすむのならいくらでも馬鹿にして下さって結構ですよ。去年は判ってるのでそれだけ」
「………判ってないところで、何やってるか」
思わず呟いた台詞に、山根が目を細めた。


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