その夜も、かなり遅い時間に彼はやってきた。
目の前にいるのが信じられなくて呆然としているうちに、抱き上げられて寝室に運ばれた。
拒むのはもちろん、どうしてまた来たのかと尋ねることすらせずに黙って抱かれた。
諦める決心をしたといっても、欲しくなくなったわけじゃない。くれるというなら有難く頂戴しておく。せせこましくも意地汚いが、何しろ次の保証がないのだ。
彼に対する見栄や体裁は元からない。
前回よりも容易く彼を迎え入れられたのに安堵しつつ、与えられた快感を存分に味わった。
朝になって帰る時、やはりそれまでと同じく何の約束もしなかった。
だが、全く期待していなかったと言えば嘘になる。昼過ぎに起きて一通りの家事をすませ、いつ彼が来てもいいように入念に体を洗い上げて夜を待った。
確信はなかった。自分の他にも彼と寝たがっている男はいる。
運が良ければ自分の所に来るだろう。しかし、来なくても死にはしない。その時は泣きながら一人で寝るだけ―――要するに今までと同じだ。失うものは何もない。
駄目で元々と居直って、彼を迎える支度を整えた。
幸いにも他の男に取られずにすみ、その夜も彼を独占することができた。その次の夜も。
少しは特別な存在になれたかと自惚れてしまったのは、自分が馬鹿なせいもあるが、彼にだって少しは責任があると思う。
とろけるような夜が続いた。
抱かれるほどに体が熟れて、快感が増していく。
声を上げて乱れてしまう自分に戸惑いもしたが、我慢しなくてもいいと言ってもらえた。
それでも堪えようとしたら、声が涸れるまで泣かされた。
終わってから「恥ずかしがるほどでかい声じゃねえよ」と笑われたのは、かなり傷ついた。
誰と比べたと詰りたくなったが、大抵の男はそうやって絡まれるのを嫌うと知っているからできなかった。
我慢しようとしたのは恥ずかしかったのもあるが、自分の反応に彼が引いたりしないか気になったからだ。人より声が大きいかどうかなんて、他の男を知らない自分には判らない。
乱暴なやり方だったけれども、多少のことでは萎えたりしないと教えられて気を緩め、次からは何も考えずに痴態を晒した。
彼に見せ付けるような気持ちも、どこかにあった。
―――声を上げさせているのは彼。穏やかな動きに焦れて、つい腰を振ってねだってしまうのも彼のせい。
あさましかろうが醜かろうが、彼が興醒めしなければいい。
彼しか知らない、彼によって変えられた体を誇りこそすれ恥じはしない。
そうやってどんどん妙な自信をつけていく一方で、経験が無いために満足させられないのではとの懸念も抱えていた。
マグロのままではすぐに飽きられてしまいそうだ。数は不明だが敵は確実に存在する。もっと早く、彼に出会う前に一通り済ませていれば悩まなかったのだろうが、それはそれで後悔したに違いない。
とにかく、無い袖は振れない。経験が不足していると思うなら、彼を相手にこれからいくらでも積めばいいのだと前向きに考えることにした。
できることから始めようと、まずは自分から彼に触れてみた。
思い切って握ってはみたものの、単調に扱くだけでいいのだろうかと迷っていたら、口での愛撫を促された。固く熱いものを頬張り、言われるままに舌を使った。
抵抗はなかった。彼を喜ばせたかったし、自分でもやってみたいと思っていた。
彼の好みに合わせたくて、とりあえず以前にもしたことのある方法を選んだにすぎない。
やってもいいと判っていたら最初から舐めていた。
歯を立てないように気をつけながら時間をかけて大きさと硬さを堪能した。途中で貫かれた時の快感を思い出して危うく達しかけたけれども、彼の手に阻まれて不発に終わった。
焦らされるかとの危惧は、すぐに奥に指を入れられて立ち消えた。
一つになって揺さぶられて、体を引っくり返されてまた貫かれて。様々な体位で交わりながら、次はどうされるのかと期待していた。
―――彼を待ち、脚を開くだけの日々がいつまで続くと思っていたのだろうか。
五日目の夜、零時を過ぎても彼は来なかった。
今夜は他の男のところへ行ってしまったのかと嘆きつつ、毎朝自分の目覚めを待ってから帰った彼なら事前に『今夜は来ない』と言ってくれそうなものだと訝った。
………前日まで、夜に来る約束も当日の連絡も全くなかったのは綺麗に忘れていた時計と玄関のドアを見比べながら、いっそ電話をしようかと思い立ったその時になって、ようやく彼の携帯の番号を知らないことに気付いた。
聞く必要もなかった。毎晩彼の方から来てくれたし、来ればやることは一つしかない。
仮に尋ねようと思いついたとしても、セックスの合間に番号を聞きだすような高等技術の持ち合わせはないから無理だったろうけれども。
そして彼もまた自分の携帯の番号を知らないはずだ。この部屋の電話番号も。
少なくとも、自分は話した覚えはない。
おそらく花輪に聞けば判るだろうが―――まさか聞けない状況にあるのか。
(親に夜遊びを咎められたのならまだいい。もし事故に遭っていたら)
焦燥にかられてテレビに目をやりかけ、慌てて頭を振った。
一介の高校生が事故に遭っても速報にはなるまい。万一あるとしたらそれは確実に―――。
次々と浮かぶ暗い予想を必死で否定し、無事を祈りながら彼の訪れを待った。
途中、緊張のあまり吐き気をもよおしてトイレで二度吐いた。何度うがいをしても口の中は苦く、喉がひりつくような感覚も消えなかった。
まんじりともせず、痛む胃を抱えて玄関のドアを見つめ続けた。
白々とした光に包まれて、朝の訪れを知った。この部屋を購入するにあたっては採光が大きな決め手になったと姉が言っていたのを思い出す。
時計を見ると六時近くになっており、いくら何でももう来ないだろうと諦めがついた。
あたりが明るくなると、暗闇の中で恐慌をきたしていたのが恥ずかしくなってくる。約束もしていない相手が来なかっただけの話なのに。
夜の間じゅう痛みっぱなしだった胃のあたりをさすりながら、リビングに向かった。
すぐにテレビをつけたのは単なる習慣で、この期に及んで彼の消息が知れるかもしれない、などとはさすがに思ってはいなかった。
(無事でありさえすればいい)
今夜も来るかどうかは判らないが、一時を過ぎたら寝てしまおうと決心したその時。
画面に連休明けの早朝のオフィス街に立つアナウンサーが映った。
ここで学校を休めたらどんなに楽だったろう。
救いは彼のクラスの授業がない曜日だったことくらいか。しかし翌日には控えているから大して猶予も無い。そもそも授業がないからといって顔を見ずに済むとは限らないのだ。
案の定、午前中に廊下で見かけた。授業を終えて、隣の教室から出てきた山根と連れ立って職員室に向かう途中、教室移動をする生徒の集団とすれ違った。中に花輪と話しながら歩く彼がいた。こちらの存在に気付き、通り過ぎる際に二人揃って会釈をしていく。
『見事にあの二人だけでしたね』
山根の笑い声に意識を引き戻され、後ろ姿を見送っていた視線を慌てて外した。
『そつがないというか御立派というか………どっちも優等生ですし』
つい嫌味混じりな返事をしてしまい、咄嗟に付け足して誤魔化した。
『こっちから見ていい生徒でも、生徒の間で浮いたりしないか心配になってきますよ』
『まあ、僕らの頃でも教師の前でいい子ぶる奴は嫌われてましたよね』
山根は、“着任は二年早くても年齢は一つしか違わない”と先輩扱いを嫌い、あくまで同世代として話をしたがる。無論、仕事上の質問も気軽に答えてくれる。実に気のいい男だ。
何かと話しかけてくれるのは、他に年の近い教師は永沢くらいというのもあるのだろうが。
『だからってあの二人がそうだとは言いませんが………実際のところなんて判りませんね。若い若いっておだてられても傍から見るより世代の差ってものはちゃんとあるし、それにやっぱり教師と生徒じゃ立場も違うし、何て言うか、その………別世界の生き物かなあと』
―――ちょっとした衝撃だった。山根の発言よりも、それを聞いて胸を痛めている自分に驚いた。彼が今話しているようなことは、前から自分でも思っていたのに。
歩みは止めないまでも表情に出てしまったらしく、今度は山根が慌ててフォローを入れた。
『いや、判ろうとする努力を放棄するんじゃなくて、年が近いからって甘えるのは逆効果かなと―――僕らの頃はどうだったって振り返りながらあれこれ言うのも、的外れだったりウザがられたりだし―――もう最初っから"違うんだ"って腹括ってかからないと』
『ですね。勘違いして変に擦り寄るのも生徒には迷惑だろうし』
『そうなんですよ。話せる教師を目指したつもりが実は気持悪がられてたって悲惨な例は、それこそ自分が学生だった頃を思い出せばいくらでもあるわけで』
職員室に戻っても山根の台詞が耳に付いて離れなかった。今まで彼が何を考えているのか判らないと不安になっていたけれど、判らなくて当たり前だったのだ。
別世界の生き物だと言われて、ようやく自分が高校生だった頃を思い出した。
親しげに振舞われるほど、より一層教師に対して距離を感じた。判った風な口を聞かれるのが鬱陶しくて笑顔で頷きながら聞き流し、何も判っていないくせにと腹の中で毒づいた。
最初から履修内容以上のものを教師に求めていなかったし、深刻な悩みがあっても教師を頼ろうとは思わなかった。
相談しても、いずれ劣らぬ間抜けな答しか返ってこないのが目に見えていたのもある。
スポーツに励めと言うか、はたまた女の子との交際を勧めるか。
そうではないのだといくら言っても理解されず、説明すればするほど泥沼化。簡単に予測できてしまう。
もっとも自分の場合は悩みが田舎の教師向けでなかっただけの話で、相談して解決した生徒が皆無ということもあるまい。
伊達に生徒より長く生きているわけではないのだし、先を見越した適切な助言を与えられる教師だって大勢いたはずだ。
ただしそれは教師がそこそこ人生経験を積み、歩み寄りのテクニックを備えている場合に限られる。世間知らずの青二才は問題外。
誰が担当しようが優秀な成績を修めるであろう生徒にしてみれば、授業以外に口をきかずとも何の差支えもない教師―――それが自分だ。
最初から甚だしく隔たっていた。それでも彼と間近で向き合いたいなら、山根の言うように腹をくくって努力すべきだったろう。自分が怠慢過ぎた。それは間違いない。
しかし、怠慢だったのは彼も同じだ。
来れば寝室に直行で、朝になったらさっさと帰ってしまう。話しかけられれば、いくらだって答える用意はあったのに。
帰り際に必ず声をかけてくれるから気づくのが遅れたが、まともに話したのは最初に部屋に来た時だけだった。
セックスをする間柄になっても殆ど会話がないのは、こちらが上手く切り出せないからだと思いこんでいた。恋愛経験に乏しい身にはピロートークも難易度が高すぎると諦めた。
彼のことをもっと知りたいのに何も尋ねられない自分が歯痒かったけれども、そのうちに何とかなるだろうと信じていた。馬鹿すぎる。
おぼろげに察しつつも目を背けていたが、ついに認めざるを得なくなった。
彼が何も聞いてこなかったのは、こちらに関心がないから。
会話がなくてもセックスはできる。いつでも大股開きな男に手間を掛ける必要はない。
他にいくらでも相手がいるだろうに自分の部屋に通い続けてくれるから、少しは気に入って貰えたのだと安心していた。単に楽だっただけなのに。
職を失う覚悟がなければ彼の後を追い回すのはもちろん口外もできない立場にある。なおかつ自宅から近くてホテル代もいらない。セックスに不慣れなのが欠点だが、簡単にやらせるのがとりえの相手に多くは求めないだろう。一方的に寄せられる思いはむしろ邪魔。失うものは何もないと思いつつ、どこかで期待していた自分の愚かさに涙が出そうになる。
確かに失うものは何もなかった。しかし心が磨り減った。
手前勝手な期待に胸を膨らませ、その都度落胆して萎縮する。
何度も繰り返すうちに、まるで干上がった大地のように細かな亀裂が残ってしまった。
―――彼のことは一刻も早く忘れてしまった方がいい。
頭では理解できている。
しかし、もしも彼がまた来てくれたら。
拒める自信はどこにもなかった。