数学・物理 100の方程式

act. 12

選択科目だから人数は少なく、自分の担当の半分もいない。だが、彼は三年生も担当しており、煩雑さは自分の比ではない。それでなくても自分は新人の名の元に何かと甘やかされて仕事が先輩達よりも少ない。今回、上が試験監督を割り振らなかったのも手の遅さを配慮してのことだろう。それも気付かずさっさと帰り、優先順位も忘れて見直しに耽って。
考えるほどに落ち込むことばかり―――彼が来たら甘えてしまいそうだと思った。
皮肉なことに、『何とも思われていない』と諦めてしまってから、彼との会話が増えた。
話しだせば、あっけないほど楽だった。口調はぞんざいだが、勘に障る類のものではない。
惚れた弱みといってしまえばそれまでだが。
大人と、というより人と話すのに慣れているのだろう。ゆとりを持ってこちらの話を聞き、彼なりの言葉で返してくれる。自分語りや青臭い自己主張とは無縁だ。
あの年頃だったら趣味などの自分の関心事を語るのに夢中になって、人の話を満足に聞かない者も多いだろうに―――そこでまた、自分が高校生だった頃のことを思い出した。

山根が言うような“これ見よがしな生意気小僧”の顔を隠した、影の薄い生徒だった。
数学は参考書を片手に自習を進め、高校二年の一学期に三年の課程を終えていた。その程度は進学校では珍しくもなければ、もっと早く終えるところもあると知らずに、内心密かに同級生を小馬鹿にしていた。空の深さも知らない、ごくつまらない井の中の蛙だった。
それらの思い上がりを表に出さないように留意して、学校の授業は平常点目当てに真面目な顔で受けていた。同級生に質問されればにこやかに教えてやりつつ優越感に浸るという、実に嫌な奴だった。
家で授業の先取りをする傍ら、一年生の頃から大学生向けの本を判りもしないくせに広げていた。兄や姉、隣のお兄さんから貰ったお古を何冊も持っていたのだが、自分で購入した本もあった。田舎の高校生でも知っている世界的な賞を授与された、有名大学の教授が執筆した本というあたりに軽薄さが露見している。当時は口にこそせぬものの『こんなのを読む自分は凄い!』と御満悦だった。
………思い出すと穴を掘って入りたくなってくる。そんな自分の恥ずかしさに気づかないのが若さというものなのだが、勘違いした挙句に教授に当てて手紙を書いた己は一体何を考えていたのか。覚えているから余計に恥ずかしい。
見知らぬ高校生からの分厚くて不躾な手紙に、教授は丁寧な返事をくれた。調子に乗って、一通目よりも重量のある手紙を出しそうになった自分を止めてくれたのは姉だ。
『田舎の男子高校生と文通して嬉しい大学教授がどこにいるのよ。ファンサービスみたいなもんでしょ。お礼だけにしときなさい。もう返事はいいですってちゃんと書くのよ?』
羞恥に身を焼かれ、涙を拭きつつ分厚い封筒を捨てた。直截的な物言いに傷付いたが、姉の言うことはもっともだと思った。自分から手紙を貰っても向こうは何の得にもならない。
代わりに書いた手紙は便箋二枚。実質一枚だったか。返事の礼と、更なる返信は無用と書いた。そこで終わればいいものを、追伸として『大学で先生の教えを乞いたい』などと要らぬことを書いてしまうところが、もうどうしようもない。馬鹿につける薬はないのだ。
高校を卒業する頃には少しはまともになり、自分のやらかしたことの恥ずかしさも認識し始めていた。それでも、何か一つでも人より得意なものがあるというのは、後ろ暗い性癖を持った自分のささやかな誇りになっていた。………とうに無くしてしまったけれども。
大学に進学してすぐに、自分よりできる者の数の多さに打ちのめされた。
なにも、自分が日本一できるとまで思い上がっていたわけではない。そんなことは全国模試の結果を見るまでもなく判っていた。しかし現実に会うとまた違う。模試の順位表で何度も見た片仮名一行ではない、生身の彼らと直接話し、その知力にただもう圧倒された。
学部に上がる頃には“どうか教授が田舎の高校生を忘れていますように”と祈っていた。
当然だが教授は自分のことを覚えておらず、初顔合わせの時に名前を名乗っても平然としていた。恥ずかしい手紙はとうの昔に処分されて記憶の彼方に追いやられていたのだろう。
胸をなでおろし、絶対に自分からは言い出すまいと決心した。何も悪事を働いたわけではないが、消してしまいたい過去には違いない。自分の場合、それが人より多すぎるのだが。
―――ふと目を開けて、扉のガラスに映る自分をじっと見つめた。
憧れていた数学者になり損なった新米教師が、疲れた顔で立っている。ここまで恥ずかしい奴は少ないだろうが、珍しいと言うほどでもないと思う。高校まで理系科目が出来た者にありがちな勘違いだ。計算が得意ならテストで点が取れる。なおかつ、理数系は苦手だと言い切る者達が安易に持ち上げてくれる。
しかし大学に進むと、少々計算ができる程度ではついていけなくなった。
それは高校生の頃から本を読んで知っていた。だが、知っていただけで判っていなかった。
―――何百年も前の学者達が解き終えた問題の解答をなぞるのが精一杯で、自分の頭で考える力のない学生は、教授の目にどう映っていたのだろうか。
数学のセンスが欠落していると自覚するのが遅れたのは、なまじ計算が得意だったせいもあるが、そこで増長してしまったのが一番大きいと思う。
くだらない見栄や思い上がりで何年棒に振ってしまったのか。就職できたのだから大学の四年間は無意味にならずにすんだが、大学院の三ヶ月は明らかに回り道だった。
特に就きたい仕事もなくなってしまったから殊更時間を惜しまずともよいのだが、両親に無駄な出費を強いた上に心配させてしまったのが辛かった。
公認会計士の父は兄に事務所の実権を譲った後も仕事を続けており、元は庄屋だという田舎豪族の娘である母は嫁ぐ折に不動産を祖父から譲られていた。金銭的には困っていない。
が、だからといっていつまでも脛をかじっていいはずもない。
それに自分は一生結婚できない。両親を心配させる材料は少しでも減らしておかなければならないのに………大学受験前のことを思い出すと、今でも申し訳なさに胸が痛くなる。
博士号を取得して研究室に残り得たとしても、それなりの地位につくまで満足に食べていけないと知人から聞いて、還暦を過ぎていた父は纏まった金を自分の口座に移そうとした。
『末男が人並みに稼げる前に、死ぬかもしれないからなあ』
苦笑しつつ現金での生前贈与を言い出した父だったが、兄に阻まれて未遂に終わった。
その兄も贈与そのものに反対はしなかった。全て銀行預金では今の時代は危ないというのが兄の主張。代わりに、地元にある母名義のアパートを一棟与えるよう父に進言した。
おかげさまで大学に上がった年から家賃収入がある。管理は母任せになっているが。
しかも全部貯金しておけと厳命されて、学費や生活費は別途仕送りしてもらっていた。
以来、地味ながらも着実に家賃は口座に貯まり続けている。本当は学費もそこから出したかったが、『それとこれとは別』で片付けられた。両親に学費を返せと姉に迫られた時も、貯金から出すと言ったら『自力で返せ』と殴られた。今の部屋の家賃も同じだ。
できるだけ早く姉がローンを完済するためにも貯金を下ろして払いたいのだと言い返したら、『あんたの稼ぎで払えって言ってんのが判らないの?! 甘えんな!』と蹴られた。
その後で金利についての説明や来年早々に完済予定であることを聞かされたのだが、できればそういうのは蹴る前にして欲しい―――と思い続けて、かれこれ二十年以上になる。
何かにつけて『甘えるな』と叱咤し、少々乱暴なところもある姉だが、結局は一番自分に甘いと思う。今もなお、愚図な弟の手元にできるだけ多く残るようにと考えてくれている。
両親や兄にも疑念を抱かせない形で都会の部屋を譲ってくれたのも彼女の甘さゆえだ。実家に帰らずとも自分名義のアパートがあるから住むところには困らないが、結婚できない身で狭い地元に帰りたくなかった。父も兄も町内の名士だ。迷惑はかけたくない。
―――思えば、兄弟の中でも自分一人だけが特別に甘やかされている。兄や姉は企業の奨学金を複数受けて学費に充て、生活費や小遣いはバイトで賄っていた。一応、進学前にその事を指摘してみたが、『今は昔ほど簡単に奨学金が受けられないから』と一蹴されて終わった。同時期に母が姉にも生前贈与をと言い出したが、姉は『死んでからでいいわよ、今とくに困ってないし。末男みたいな甲斐性無しと一緒にしないで』と断った。
そこであっさり引き下がった両親や兄を見て、家庭内における自分の地位について考えさせられてしまった。恐らくこの先何年経っても、みそっかすを卒業させて貰えないだろう。
正月に帰省した時は、七歳下の甥っ子に『爺ちゃんまだまだ元気だし、死ぬ頃には俺も就職してるんじゃないかな。だから末男ちゃんも心配しなくていいよ。失業したら俺が養ってあげる』と言われてしまった。………彼と同じ学年の甥っ子に、そこまで頼りないと思われているのだ。甥っ子よりも大人びた彼には、さらに情けなく見えているだろう。
年ばかり重ねた、世間知らずのよく泣く男―――そんな奴といて面白いわけがない。
どこが良くて自分のところにやって来るのか、さっぱり判らない。長続きはすまいと覚悟しているが、やはり少しでも先に延ばしたいというのが嘘偽りのない気持ちだ。
どこか取り柄があるなら教えてほしい。そうすれば自分を少し好きになれそうな気がする。
別れた後でも自棄にならずに、自分を大切にできると思う。
―――いっそのこと、『僕のどこが好き?』なんて恥ずかしい質問が出来たらいいのに。
絶対に、無理だけれど。言うのが恥ずかしいのもあるが、そもそもそういう関係ではない。
好きだ嫌いだと思いつめているのは自分だけ―――それを忘れてはいけない。
彼が通う気になれるのは、しつこく纏わりつかなくて口が堅い男の部屋なのだ。

息せき切ってマンションに着くと、意外にも彼が既に来ていた。部屋の真正面から少し離れてエレベーターの前に立っている彼と、腕時計を見比べながら鍵を開ける。
「ごめん、こんなに遅くなるとは思わなくて」
「謝るこたねえよ。俺が勝手に来たんだし」
帰ったりせずに待っていてくれたのが嬉しくて、鍵を回す手が震えそうになる。何とか無事に開け終えて中に入ると、ドアが閉まるなり彼に尻を掴まれた。鞄を取り落としかけて慌てて抱え直し、振り返って彼を見る。とてもじゃないが睨んだりはできない。
潤んだ目で睨んでも何の抗議にもならないだろうし、睨む力も目元に残っていない。
彼は笑いながら両手を上げると、さっさと靴を脱いで部屋に上がってしまった。
それを見て『早くしなくては』と急いだまでは良かったが、上がりざまに躓いてしまった。
危うく床に顔面から激突しかけたが、寸前で彼が上体を抱きかかえて止めてくれた。
「あっぶねえなあ、おい」
礼を言わなくてはと思ったが、あまりの恥ずかしさに顔が上げられない。
「大丈夫かよ」
自分の額に手を当てた彼の声は笑っておらず、純粋に体調を心配してくれているのが判る。
ここで腹を抱えて笑うような男だったら少しは嫌いになれるかもしれないのに、と手前勝手かつ卑屈なことを考えながら、彼の胸に凭れた。
「大丈夫だよ。何ともないから」
そう言って見上げると、すぐにキスをしてくれた。目を閉じて彼の舌を受け入れ、久しぶりの感覚に酔う。―――ずっと、これが欲しかった。これだけじゃなくて、この先も。
しばらくして唇が離れると、彼はぽつりと呟いた。
「熱は無いな」
色気も何もなかったが、少しでも自分のことを気遣ってくれたのが嬉しい。
「うん。ない」
だから、とねだる代わりに、中腰になっている彼の股間に顔を寄せた。断りもなくジーンズのファスナーを下ろし、手を入れて彼のペニスを握る。
「ちょっと待て」
拒絶ではないと判っているから、不安に思ったりせずに大人しく待った。今まで、積極的に振舞って彼に嫌がられたことは無い。やりに来た以上は、ちゃんと付き合ってくれる。
立ち上がり、廊下の壁に背を預けた彼の股間に再度顔を近づけ、ペニスを握りなおして唇で触れた。まだ柔らかい物の先端を含み、唾液で濡らす。ゆっくりと両手で扱きながら、できるだけ深く呑もうとした。まだ喉は上手く使えなくて、もう少し大きくなったら持て余してしまう。今の内に少しでも奥に彼を収めておきたかった。


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